この記事では、概要について記述致します。
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ペルーは南米の一国です。
インカ帝国のような優れた古代文明が栄えたことで知られます。
隣国はエクアドル、コロンビア、ブラジル、ボリビア、チリが接しています。
ペルー日本大使公邸人質事件で知られます。
こうした事件が発生する背景には、深刻な経済不安が存在しており、政治的な軋轢が高まっていたことが関係しています。
1980年代から1990年代前半にかけ、ペルーは深刻なインフレに陥り2度の大きなデノミネーションが実施されました。1度目は1985年で、それまでのソルを1000分の1にしてインティスという名前に変えました。このページで紹介している紙幣です。2度目は1991年で「百万分の一」デノミを行い、1,000,000インティスを1ヌエボ・ソルとしました。ヌエボ・ソル(nuevo sol:新ソル)は、現在も流通しており、一般的には「ソル」と呼ばれています。
二度のデノミネーションが発生しているということは、二度のハイパーインフレが生じていることを表します。それが6年ほどで生じているわけですから、ペルーの信用は1991年には地に落ちていました。
ひとつの家庭で例えるなら、6年余りで二度破産したことに相当します。この状態はホームレスか何かに例えることができるでしょう。如何にペルーの政治リスクが高いものであったか理解していただけるかと思います。
こうした状況にあったペルーを日本が始めとなって積極的な融資を行なっています。
現在では商品価格の高騰を背景として成長路線をとっています。
皮肉なことに、二度のハイパーインフレによって逆に一次二次産業が強くなりました。その結果、2004年以降の商品価格の高騰によってペルー経済は潤う流れが強くなっています。
貿易では銅、金、原油、石油製品、亜鉛、鉛、などの鉱物資源や海産物、穀物類などに恵まれた国家となっています。
輸出統計(品目別)
最終更新日: 2011年09月09日
単位:100万ドル、%
2009年 | 2010年 | |||
---|---|---|---|---|
金額 | 金額 | 構成比 | 伸び率 | |
輸出総額(FOB) | 26,962 | 35,565 | 100.0 | 31.9 |
伝統産品 | 20,622 | 27,669 | 77.8 | 34.2 |
銅(地金・精鉱) | 5,934 | 8,870 | 24.9 | 49.5 |
金 | 6,805 | 7,756 | 21.8 | 14.0 |
原油・同製品 | 1,921 | 2,805 | 7.9 | 46.0 |
亜鉛(地金・精鉱) | 1,233 | 1,691 | 4.8 | 37.1 |
魚粉 | 1,425 | 1,609 | 4.5 | 12.9 |
鉛(地金・精鉱) | 1,116 | 1,579 | 4.4 | 41.5 |
モリブデン | 276 | 492 | 1.4 | 78.3 |
非伝統産品 | 6,186 | 7,641 | 21.5 | 23.5 |
農産品 | 1,825 | 2,190 | 6.2 | 20.0 |
野菜 | 739 | 864 | 2.4 | 16.9 |
繊維製品 | 1,495 | 1,558 | 4.4 | 4.2 |
衣料品 | 1,173 | 1,200 | 3.4 | 2.3 |
化学品 | 837 | 1,223 | 3.4 | 46.1 |
金属製品 | 569 | 918 | 2.6 | 61.3 |
銅線 | 204 | 390 | 1.1 | 91.2 |
亜鉛品 | 103 | 171 | 0.5 | 66.0 |
水産品 | 518 | 642 | 1.8 | 23.9 |
冷凍魚 | 127 | 109 | 0.3 | △ 14.2 |
木材・紙 | 335 | 355 | 1.0 | 6.0 |
その他 | 154 | 254 | 0.7 | 64.9 |
〔注〕通関ベース
〔出所〕ペルー中央銀行(Nota Semanal)
〔出所〕ペルー中央銀行(Nota Semanal)
・年表
1962年 軍事クーデター
1968年 軍事クーデター ペルー革命
1976年 IMF管理下に置かれる
1978年 経済政策の行き詰まりからIMFの融資を受け入れた上で、立て直しを図る
1980年 センデロ、アヤクーチョ州チュスチで投票所を襲い、投票箱を焼く。武装行動の開始。リマで米大使館,バンク・オブ・アメリカなどをあいついで爆弾攻撃.その後10年間の死者は1万8千人を越す。
ペルーのポルポト: グスマンは「ゴンサロ議長」と呼ばれ、制圧地域での商品販売を禁じ、主義にしたがわないものは、子供でも殺す残忍さから、「ペルーのポルポト」といわれる。一方麻薬カルテルと手を結び、潤沢な資金供給を受けているといわれる。
1980年からの10年間では暴動や破壊活動が活発化する
1982年 ペルーをエルニーニョが襲う。異常気象による経済的打撃により、経済成長率がマイナスに落ち込む。開放経済をとったことから、貿易赤字は大幅に拡大。インフレ率も73%に達する。 政府は対外債務返済のためIMFの方針に従い経済調整を実施.
1983年 ベラウンデの輸出振興戦略,失敗.・エルニーニョなど自然災害,・国内政策の失敗と・大恐慌以来の世界的な一次産品の価格低下,・高金利,外資の流出がそれに輪をかけた.70年代を上回るインフレと不況が同時に襲った.経済成長率はマイナス12%に落ちこみ,実質賃金も20%低下した.失業・半失業者が65%に達する.大蔵省は「いまや今世紀最大の経済危機となった」と宣言.
1985年12月 旧通貨1000ソルを1インティスに変換するデノミネーションを実施。
1987年 石油地帯が大地震に見まわれ経済が再び危機に見舞われる。
1988年 インフレ対策を行うが、逆にインフレを煽る逆効果な経済政策を行う
1989年 GDPは89年マイナス11.9%、89年度2,775%、90年7,650%。
ガルシア在任中の累積は2,200,200%となる。国家財政は9億ドルの赤字を抱える。一人当たりの年収は720ドル(1960 年のレベル)以下まで低下。GDPは20%以上低下する。
1980年代には南米諸国でハイパーインフレが相次ぐ。経済対策の無策による迷走の結果だった。
1990年 フジモリ大統領就任 迷走していたペルー経済の改革を開始。この年のインフレーションレートは7,657%に達する。
1991年7月 旧通貨1,000,000インティスを、新通貨1ヌエボ・ソルに変換するデノミネーションを実施。
1992年4月5日 フジモリ大統領 自主クーデター(アウトゴルペ)を行う。この体制はファシズムに近いものだったが、フジモリ大統領の支持率は4月末時点で82%にのぼった。フジモリ大統領自身が腐敗体制の一掃や、テロの根絶を目指していたため、国民からの強い支持を得ていたと言える。
1993年12月29日 新憲法公布
1994年6月6日 フジモリ,羽田首相と会談。円借款の供与を実現、IMF、世銀の融資、日本の援助などにより、ショック政策が効果をあらわし始める。インフレは7,000%から17%に沈静、93年の経済成長率は6.9%、94年には12.9%に達する.しかし失業率はさらに増加し75%に達する.
1996年12月17日 ペルー日本大使公邸人質事件
1997年4月22日 ペルー日本大使公邸人質事件終結
2000年4月9日 フジモリ大統領 17年ぶりに全土の非常事態を解除する
2007年8月15日 ペルー大地震
正直なところ、ここまで迷走が続いた国家とは思っていませんでした。
今回調べるまではインカ帝国とペルー日本大使公邸人質事件、フジモリ大統領くらいのイメージしかありませんでしたから、具体的な内政環境については全くの無知でした。
やはりハイパーインフレに陥る国家は間違いなく腐敗と衰退の道を走っており、国民生活は非常に凄惨なものとなっていることがよくわかります。
現在ギリシャがデフォルト寸前となっていますが、仮にデフォルトすればEU諸国が似たような混迷を迎える可能性は高いと言えるでしょう。
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